水鴎流第十五代宗家の講和より(2007.12.15)
水鷗流第十五代宗家 居合とは何か
答えは誰もわからない。自由でよい。
自分の考えを持って答えはそれぞれ違っていてよい。
相手を倒す技である。自分の内面を見ることができるものである。
流祖の道念
合理的な刀法、それに伴う心法の二つしかない。
現代はそれ以上のことは考えられない。
相手と戦わないと本当のことはわからない。 これが居合の極意である。
心法とは
人それぞれ心は違うから、どんな方法で覚えようとしても自由である。
皆同じものであってはならない。個人の感覚 が大切である。
合理的刀法
稽古を沢山やって無駄を多く体験しなければ、良いものが残ってこない。
無駄を一生懸命練習しなければならない。
長年やっていると分かる。力をいれなくても自然にできるようになる。
水鷗流ではいろいろなものをやる。動きは何をやっても同じである。
自然に動ける武術的な練習を積み重ねなければならない。
何か一つ身につけば、何をやっても出来るもの。
その何か一つということがよくわからないものである。
意識をしてもできない。練習が大切である。
武術は自分の命を守るための動きなのである。簡単にこういうものだと云ってはならない。
基本とは
極意である。
基本からは教えられない。
武術では、生き残ることが基本であるからである。
このことは一番難しいことで、探し出すことが難しい。
簡単なことではない。生きている内はわからないであろう。
自然の流れの中に生まれてくるものである。
自分自身の体験から何かが生まれてくるものである。
体験した分だけそれぞれ違ったものが出てくる。
結論
1、個性的であること
2、何かを見つけることは簡単ではない
3、分からないこと、無駄は大いによろしい。下手にやること。
藤水会では宗家の教えを基に、指導する人、習う人が一体となって練習に励んでいます。