十五代宗家講演会
「武は人なり」
武道修業の目的を語れば、人それぞれ異なるが、私にとって、最終的には
『人間性の向上』という、判りにくい結論に帰する。
その目的は、一般的には修業前に各々が抱くものであるが、私にとっては、修業して始めて見つけたものが目的であった。
我が水鷗流開祖三間与一左衛門景延は次のように伝えている。
『我が剣は、修験の行道なり。敵心を刀鞘の内に斬り、敵をして動かざらしめ、抜かずして敵を圧倒するのが当流の極意、不敗の位なり。剣刀交叉の間、勝敗を離れ、純一無雑・神人合一の境地に徹せよ』と。
抜刀撃剣は、神の道にあらず。
勝ちを思わず敵と和するを本旨としている。寛容をもって敵に接したるが故に、多くの門弟信者を得たのである。
この流祖の教えを身を以って判るのは、おそらく数少ない後世であろう。
想像を絶する修業をなし得た者のみが、その教え、極意を得るのである。
私は冒頭、『人間性の向上』という目的が、最も判りにくいと語った。現代の修業の量・質では、絶対に得られないと断言でき、又断言するが故に、私はそれを敢えて最終目的に定めているのである。
修業の質・量は、それぞれの時代背景により相違がある。戦国の世に生じた凄まじい武道を、この泰平の世人は何を理解し、何を見い出すことができるだろうか。
日々、命を懸けて技を修得した武人たちの気質は、現代人には容易に理解されるものではない。それだからこそ、私は当時に遡り、困難な道の追求に精進しなければならないのである
